地区別計画の功罪

地区別計画

昭和63年に開始した当町の「地区計画」は当時相当の反響があったらしい。まだ「住民協働」という概念が、今ほど広まっていないなか、「地区の計画は住民が創りあげ、それに対して役場は予算化する」という考えのもと開始された。

職員の研修の場として

各21地区には役場職員全員が必ずいずれかの地区担当職員となり、時には地区の会合に出席し、時には計画書策定の手助けとして加わった。この面から考えると、地区の様子を知るという点のみならず、土木担当職員だろうが、福祉担当職員だろうが、ある程度の町の制度を知っている必要があり、また住民との対話や交渉術を磨くという点においては、職員研修という意味も含まれている。

ボトムアップ型の住民参加

開始当時は財政状況も今のように厳しくなく、地区(住民)側とすれば要望した全ての計画に予算がつき事業化されるという状態だった。地区側もこのような状況の中、区・地区・常会・組合という単位の中でいわゆる「会合」を行い、末端から要望を吸い上げるというボトムアップの概念と、会議を開きながら物事を決め、役場に対して要求していくというスタイルが確立したのは大きく評価される点だ。

 当町でこれだけ地区計画が普及し根付いた点として、当時の理事者のポリシーとして「区」(住民個人ではなく「区」)を(頑固なほど)重要視するという考えがあったことはお大きい。「区」が本当に欲するものは役場として事業化するのは当然、と頑までの当時の理事者のポリシーは明確だった。

課題

ところが問題点もいくつかある。
1.「地区計画」が開始された当初は、「議会軽視」としての声もあり、議員・職員はともかく町民からもかなりの抵抗があったと聞いている。
2. 次にはNPOなどの、地縁を超えた団体が育ちにくい土壌ができている点である。KJ法を導入したワークショップ、また「行政ではなく住民から変えていこう」という動きは、高森町では早い時期から生まれてきたのにもかかわらず、「地域リーダー」が育成できていない現状には、このような理由があると考えられる。(「区」がその機能を果たしており必要ない、という考え)
3.また、PDCAサイクルが定まっておらず、ほぼ同様の手法で20年間行ってきたため、考えや手法が固定化・形骸化している点も課題である。


解決策

1.解決策としては、議会との関係においては、地区計画策定の時点から議員がもっと参加できる機会を増やすことが大切だ。選挙で選ばれた住民の代表である議員は、PDCAのCの部分のみではなくPDにも積極的に参加してもかまわないはずだ。Cを考えるときは、地区の視点からのみではなく、町全体を視野に入れて地域づくりを一緒に考えることができるはずだ。
2.次には、同じ志をもった人間(これは職員も町民も議員も)をどのように繋げていくかだ。「区」の重要性や組織力を認めつつ、これだけライフスタイルが多様化している現代において、長い目で見れば「区」や血縁、そして世代などにとらわれない「同じ志」を持ったグループの存在はとても重要ではないだろうか?

変化に対応できる体質へ

時代は常に変化している。これから僕たちのような若い世代の職員は、上記のような課題をどのように解決していくか、そして「絶えず変化すること」を恐れない町にしていくのか、を常に考えていなければならない。

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