【読書メモ】『市民自治のこれまで・これから』松下圭一「いまから始まる自治体再構築」




松下圭一「いまから始まる自治体再構築」『市民自治のこれまで・これから』今井照編

≪自治体職員は変わったか?≫ 
P7 ◆1970年代、「補完原理」を提唱。自治体を土台に国を補完と位置づける
◆都市型社会の市民によるシビルミニマム(今で言う安全・安心ネット)の空間システム化として自治体理論と現代都市政策論の統合
P7
◆1960年代、日本の現代都市・自治体理論の未熟さ=国家観念から出発する当時の日本の社会・政治理論を地域民主主義を起点に転換 
◆当時の主流の階級闘争=労働組合という考え方では「自治体改革」は不可能という問題提起
◆自治体職員の三面性・・・まず「市民」そして「労働者」「公務員」
◆「職員は『市民とともに考える』のではなく『市民として考える』」 
P9 
◆2000年分権改革後も「居眠り自治体」が多い⇒国の国内市場拡大やデフレ対策に踊って財政破綻した市町村・県 
◆職員給与制度・情報公開など、各自治体がこの問題を整理するまでは職員の新生はない。 ≪市民活動・協働・コミュニティの考え方≫
◆「市民ができないところを職員がやれば良い」 
P10 
◆シビル・ミニマム論「市民でできることは市民でする」「市民でできないところは行政がやるが、行政はミニマム以上のことはできないため、ミニマム以上は市民の自由選択の領域」「シビルミニマムの課題領域でも市民自身あるいは団体・企業ができる領域がある」 
◆行政はミニマムしかできない、という自覚が必要=自治体計画はこのシビルミニマムの空間システム化 
P11 
◆緊張感=市民行政と職員行政は反比例 
◆協働の悪用・・・市民から行政への協働は「批判・参加」、行政から市民への協働は行政による「取り込み」
◆行政と市民の間には対立は付き物。市民参加・情報公開の手続きの中で主権者市民と受託者行政との間で市民自治型ルール「自治基本条例」ができるかどうか? 
◆行政からの協働は半分だけ評価。庁内決定のみだったのが住民起点への転換がやっとスタートしたと取れる。 
◆市民の選挙と納税によってはじめて行政組織は成立する 
P12 
◆最近の地縁的コミュニティ立脚行政は行政下請け機関としての町内会の復活 
◆阪神大震災は町内会・自治会も崩壊。中心は自発性を持つ活動家型の市民達 
◆行政はもちろん崩壊。発生当初の2日間、市役所・県庁に登庁した職員は2~3割 
◆行政組織や職員は市民に下請けをさせる意識多いが市民は「行政の起点」
P13 
◆ナサケナイ官治発想・・・×「NPOは批判型でなく参加型!?」要綱、×「NPOへの担当職員制!?」、「団体補助が無ければツブレルNPOはつぶれてよい」 
◆市民活動は無限の可能性・想像を超える可能性・地域個性を持つ市民の自由・自治の空間のため、法制化にはなじまない 
◆これから団塊の世代が地域に進出。専門知識・経験等は行政職員より上。政治参加・情報公開などの制度策定が出来ていない時、厳しく市民から批判を受ける。 
◆今一度間違っている「協働」の概念を丁寧に分析して実践に適用していく必要がある 
≪地域社会で暮らし続けるために≫
P15 
◆都市型社会が進展する中で、地域が経済的・財政的に自立するとは、①市民参加による市民の自発的結集、②シビルミニマムの公共保障、③都市・農村改造を含む地域経済力の適正配備、④国の政治・経済・文化の分権型再編、⑤自治体機構の透明化・効率化・効果化の「自治体の5課題」に、改めて工夫をこらして地域特性のある政策・制度づくりをしていくこと。 
P16 
◆しかも地域での独自工夫をしながら地道に行っていくしかない。国の補助・支援は(全国画一的で)かえってマイナス・ムダ。 
P17 
◆こういう時代だからこそ、改めて市民自治・地域自治という考え方からの出直しが必要。各地域の問題は市民の自己責任。 
◆地域課題もその解決方法も「地域個性」を持つ。この地域個性を活かすために国の責任もあるが、地方が泣き言を言う時代も終わっている。 
◆(国が独自課題領域としてのナショナルミニマム整備を目指す国の負担金は別にして)国からの奨励的補助金は(危機管理を除いて)やめて、自治体の自由は財源にしていく。 
◆この交付税配分は(総務省のさじ加減による不透明な現在の積算方式を止め)①面積・人口に比例②地域経済力に反比例③これに高齢化率・積雪率を付加し、「分権型」で「財源の地方配分を高める」という「客観指標」にしたい。 
◆各自治体が持つ今日の財源を借金返済も含めていかに「独自責任で政策運用するか」という「財務」については、まだ十分進んでいない。 
◆この「財務」は各自治体における個別政策の選択責任と結びついているため、「政策法務」と並ぶ「政策財務」と位置づけ、自治体の新戦略課題領域とみなしている。 
P18 
◆自治体の「財務」責任を①財務情報の作成・公開とともに、②市民が絶えず問い、自治体の長・議員・職員を鍛え直す必要がある。今までの自治体の長・議員・職員は結局は地域資源を有効に活用してきていなかった。 
◆2000年分権改革後も、現場能力がない省庁官僚がなぜ「事前審査」をするのか?問題があれば司法などによる事後手続きで良いはず。 
P19 
◆『情報なくして討議なし』議会改革については、議会審議に不可欠の関連政策情報を(入札現実も含めて)徹底的に公開すること。能力がない議員は淘汰されていく。 
◆問題は、職員が原価計算、事業採算から連結財務諸表までの財務情報をいまだに作れないこと。各自治体の「財務責任」という考え方自体が確立できていない。長・議員・職員はレベル的に同列。 
◆議会の再出発は、自由討議・文書質問等の手続きづくりと実現、陳情から「市民提案」へ、委員会の積極活用による通年議会等である。 
P20 
◆各自治体議会は自らの独自工夫を重ねて「議会運営条例」、長とともに「自治基本条例」をつくり、「自治の誇り」を持つべき。 
◆有能な旧自治体職員による法務センターの設置。 
≪道州制議論のどこが問題か≫
◆2000年分権改革は、分権の受け皿としての市町村合併論が出た。だが、私たちは権限の垂直分権を行うべきとして受け皿論を保留。 
◆だが国は定着すら見極めず、カネのバラマキ型のアオリをかけ、しかも県の無責任な主導で合併を推進。これは日本の行政・政治というよりも「自治の品性」が問われているというべき。 
◆合併特例債関係で、タダでさえ大きな日本の借金はさらに膨大。
◆2000年分権改革の成果を10年程度かけての合併ならば、自治体職員の独自政策水準の高まりもあり、地方の大きな借金の整理の見通し、さらには少子高齢化の問題も検討できた。だが総務省はタイミング測定に失敗した。合併特例債を用いた今回の合併は大きなツケを後世に残す。 




P22 
◆現在の道州制の議論は早すぎるというよりは、国会議員や評論家のお遊びのオモチャになっている。 
◆道州制と一口に言っても「省庁主導型」なのか「府県統合型」なのか「特に憲法上の自治体にあたる」のか。論者もそれぞれにつめていないナサケナサが実態。 
◆集権型は論外だが「分権型の道州制」であれば次の基本論点の議論を前もって準備として積み上げることになる。 
・従来の国による「限定分与」ではなく、補完原理にたつ市民からの新しい「包括信託」という形で全市町村が政令市なみの権限を持つ。ただし、個別市町村で必要のない権限は持つ必要がない、村で地下鉄をつくることもないから。
・県からの権限・財源・職員の市町村への大幅移転となる。県は実質上身軽になるため国の内政上の多くの権限・財源・人員を県に移すとともに、当然関連省庁の支分部局も県単位に分割して人員とともに県へ移行。 
◆しかし国会議員など道州制論者はこの基本論点を把握していない。国には記にレベルで必要な権限・財源が残るのみとなり、今までの「口利き」のチャンスが減ることすら分かっていない。国会議員が「言葉アリキ」の道州制を自己目的として推進しているというコッケイな逆説がある。 
◆それとは別に日本はアメリカ・カルフォルニア州ほどの面積しかないのに47も県が必要かという議論があるが、日本の国土の可住地域は2〜3割ほど。そこにアメリカ人口の半分が住んでいる。言うなれば解決すべき政策課題の地域密度が高く、広域の道州制では具体性のある市民課題に制度的に対応することは不可能。そのため基礎自治体である市町村の権限・財源強化こそが基本。
P23 
◆道州制の問題として、第一に「道州制の単位で行政ができるか」という基本問題がある。実際、東京都をはじめ狭い県域で金もあるのにムダや汚職のレベルのみでなく国と同型で行政水準自体が低い。道州制ともなれば、見たことも行ったことも無い「所」をめぐる政策について、道州庁の職員や首長・議会は行政・政治決定をしなければならない。 
◆国がやっているというが、今までの天下り・陳情・口利きを組織化してそこから情報収集するという官治・集権のヤミ手法は破綻。
◆実際、北海道では道庁・支庁のあり方を巡って解決方法がなく苦労している状態。安易に北海道をモデルとするような今日の道州制議論の甘さが顕著。 
◆第二に、道州制にすれば実質的な距離コストが高く、職員はもちろんのこと、住民からも道州庁ははるか遠い存在となる。
◆第三に、職員の配置問題。例えば東京に道州庁がおかれれば神奈川・千葉・埼玉などの幹部職員は通勤距離が長くなる。旧県庁に職員を多く残すとなれば道州制の効率・効果は上がらない。 
◆第四に、道州制の区域分けが上手にいくかどうか。すでに道州庁争いが起きている県もあり。対等合併自治体でおきている主導権問題も噴出する可能性大。 
◆第五に、現にある県のそれぞれの借金の不均等の問題をどのようにクリアするか。道州制になった場合近隣県の合意を得られるかどうか。
◆政治問題的に見れば、2007年参議院選挙の自民党の敗北は、市町村合併で自民党系の議員がまとまって減少し、浮動票・批判票を促した結果もある。郵便局長会やJAなどの自民党を支えてきた組織も弱体化。道州制ともなれば、県会議員も一気に減り、霞ヶ関の省庁再編だけでなく特に格闘の従来型地域・業界組織の再編が現在の県レベルで改めて顕在化する可能性大。つまり既成の政治的資源を活用することができなくなる。 
◆道州制は市町村合併以上に、各政党にとっては政治問題だということに国会議員は気付いていない。
P26 ◆しかも問題の核心は市民自治を起点に「補完原理」つまり基礎自治体から出発する日本の自治・分権をどう制度設計するかにあり、「道州制」の導入が目的ではない。基本は、戦前型体質を強く持つ現在の「広域自治体」たる県を「基礎自治体」たる市町村への統治型から補完型に転換するという形での、国の官治・集権構造の改革にある。道州制はその付属議論にすぎない。
P27 
≪責任明示の分離型自治制度を≫ 
◆現在の自治制度は融合型。限界もあるが、融合型だからこそ地方から国へ意見が言えたという意見もある。これからは融合型のメリット活かすのか、それとも分離型にすすむべきか? 
◆日本も非生産的な「観念性をもつ国家論の時代」から国レベル・自治体レベルでの権限・財源配分という「政策・制度型の段階」へ。 
◆融合型の問題の一つは「機関委任事務」。教育を例に挙げれば2000年分権制度改革後も、学校長、ついで市町村長・市町村教育委員会、また県知事・県教育委員会、さらに文科省というかたちで、法制上も責任が明示できない、しかも権限・財源が入り組んでいる、という融合型の欠陥構造を持っている。 
◆融合型とは「当事者責任」を曖昧かつ回避する仕掛けに過ぎなかった。
◆新しい課題は噴出。国・市町村の財務破綻、政策・制度の時代錯誤、市民社会の成熟、情報公開、耐震偽装、医療崩壊、国の特会問題…さらには社会保障再編、社会資本更新、地域における景観・環境・生態の保全、都市型社会の成立、少子高齢化時代… 
◆そのためにも、政府である自治体の自由度ないし責任性を高めるため分権化・国際化が重要。 
◆そこには今までの集権型政治・行政のクミカエはもちろん、各自治体も地域個性・政府責任を活かして<多元・重層>、つまり市町村・県・国それぞれの、政府としての責任を明示・分割する「分離型」の性格・制度模索に取り組むべき。これは未完とはいえ、2000年分権改革の本来の課題だったはず。 
◆それに加え市町村・県・国における政策・組織・職員の再編をともなう「自治体再構築」には、自治体職員がこれまでのゼネラリスト型つまり素人中心では対応できない。
◆ここから職員も①企画・総務型、②専門型(外部化可能、しかも中途採用も当然)、③実務型(②と同様)の三類型に分化。
◆IT技術等の急速な変化は年功序列・終身雇用という制度も壊すようになる。 
◆また「法務・財務」という日本の自治体では未知の新領域の登場もある。 そのため②専門型職員を庁内では育成できず、中途採用という形で「外」から確保するということが自治体再構築にあたっての課題になる。
P30 
◆このような政策・制度の改革をめぐって、熟度と洗練さをもつ「強い」自治体に向けての「再構築」は急務。
◆未知の領域である自治体「法務・財務」の確立に加え、地域生態・地域史・地域デザインを踏まえた景観づくりへの展望を持つ地域再生が、地域経済力の活性化、ついでシビルミニマムの質整備とともに、今日の自治体再構築には要請される。情報公開で市民に鍛えられる自治体政府、つまり自治の誇りと責任を持つ長・議員また職員の出番がやってきている。



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