20091027愛媛県内子町へ、そして岡田文淑さんに会う

愛媛内子町まちなみ保存 岡田文淑氏

10月27日、大洲から内子町へ入る。内子町の八日市護国地区は1982年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。その町並みは多くの民家と商店、そして歴史的建造物が上手に調和しながら、内子の昔ながらの風景や歴史文化を残していた。
最初に寄ったのは内子の町並み保存運動の拠点である「八日市・護国町並保存センター」だった。内子の町の歴史を商業(市場、交通要衝地)、産業(木蝋)、そして歴史文化(演芸等)という切り口から詳細に説明しているパネルが展示されており、また単に昔の家屋を残すだけではなく、現代の人々との暮らしとどのように調和して、保存しているかが説明されていた。
さらに進むと「木蝋資料展示館」の看板が見えてきた。木蝋とはウルシ科の櫨(はぜ)という植物の実から絞り出された脂のことであり、それから作られた蝋燭が内子の基幹産業であった。もともとこの展示館は、この木蝋産業で富を築いた豪商「本芳我家」の分家の「上芳我家」の屋敷である。蝋絞りそのものは江戸時代中期より行われていたが、本芳我家の祖先が数十年の努力の末、蝋をさらし漂白する技術を開発し、本格的に良質な蝋の生産が始まったと言われている。今回は残念ながら工事中ということもあり展示館のみの見学となったが、その資料と展示物を時系列に追っていくと、木蝋産業の盛んだった内子の町がよみがえってくる。
そして次は「内子座」へ寄る。大正天皇即位のお祝いとして建てられたこの劇場は、もともと江戸時代から町民や近郷在民の娯楽であった歌舞伎・人形芝居などが行われる殿堂として有志18人により株式会社が設立され、地元の大工や左官によって建設されたものである。時代の変遷と共に映画館や商工会館として町の皆さんに愛されてきたが、昭和50年代からの内子町の歴史環境保全運動の一環として保存の機運が高まり、昭和60年に3カ年の月日と7,020万円をかけて完全復元されている。 内子座は当時と変わらない姿で私たちを出迎えてくれたが、その後ろにはこのような内子の人々の地域を愛し、将来へ繋げていきたいという想いがつまっていることを改めて感じた。「内子座」は木蝋産業の隆盛時代の象徴、そして町の芸術・芸能の中心地であったことの象徴であると共に、内子町の住民の皆さんの地域を愛する心の象徴とも言える。
江戸時代より盛んだった木蝋産業は明治中期あたりを境に文明開化の波に押され、のちに製糸業へと転換していくが、今の内子の町並みは、当時の隆盛の雰囲気を感じられるほど、建築物のみならず、空気さえもそのままに保存されていた。
そんな内子の町並みを後にしつつ、この保存運動のキーマンである岡田さんが待つ喫茶店へと向かった。岡田さんは内子町役場の職員を10年前に退職され、今は地域づくりアドバイザーとして全国を飛び回っている。「行政の仕事やめて、なかなか場所が確保できなくてね。ここは賃料はタダだけど、一人何かを注文するのがルールなんだ。実は、このプロジェクターも自前なんだよね。」
コーヒーを飲みながら、岡田さんは「まちづくり・地域づくり」を「観光」という切り口から、情熱的に語ってくれた。「本来、観光とは『易経』にある「国の光りを観る」が語源であり、『観光=ちいきづくり、まちづくり』なんだよ。そうみると今の観光には2つある。一つは虚需(偽りの需要)からくる観光だ。これは観光産業のことであり、本質を知らず開発のみが進められてきた。結局自治体は大きな借財を背負い、そのツケはそこに暮らす住民に降りかかってくる。本来の観光とは必需から生まれる物で、それはその地域の『生活』や『暮らし』なのだよ。」
「観光とは『歴史的環境』や『日常そのもの』などが資源であり、この資源は行政でなく、そこに住む人々が長い年月をかけて日常生活の中で創り出してきたものなんだ。」
「だが行政は今まで何をやってきたのか?土産物と証するものは外国産(輸入物)や地域外で作成された物(レール物)が溢れ、行政は、それを買うために観光客が集まると宣伝などにお金・時間・人を費やし、それにより住民は地域が活性化するという幻想を抱くようになった。だが夕張に代表されるように、現状はどうだろうか…その責任は誰がとるのか…」
「土産も本来は『宮笥』であり、御札を板に貼ったお宮からもらった入れ物をさすものだった。こう考えるとお土産とは『地元の人に愛され』『重宝され』そして『本物』であるのが本来の姿なんだ。」
「観光は、金にならず、金儲けが目的になってはいけない。あくまでも結果で収入が生まれただけで、それはもてなしの対価なのだよ。」
そして、岡田さんは「石畳を想う会」の発足について話し始めた。
「今までのまちづくりは、右肩上がりの時代になぞらえ、常に去年より今年、今年より来年と『足し算型のまちづくり』を行ってきた。しかしそれは『一流の田舎を壊して、三流の都市化を求める』愚かな行為だったんだ。私が進めているのは『引き算型のまちづくり』だ。常に地域課題を意識して、その要因を払拭する。これが『引き算型のまちづくり』だ。」
「都市があるのは一流の田舎があり、それらが交わりそして一体化しているために成立している。しかし、石畳地区は、少子高齢化が進む典型的な中山間地域。このままでは廃墟と化すのは間違いない。」
「そんな一流の田舎を残すためには、地域住民自らが担い手として、地域を想い、愛し、自立(自律)していかなくてはならない。そのために私は石畳に出向き『石畳を思う会』を立ち上げたのだ。」
「石畳を思う会」のルールは5つ。1)肩書きを持たず、2)会則を持たず、3)補助金に頼らず、4)言い出しっぺがリーダーとなり、5)勧誘はしない。
石畳を村並み保存運動の発端は、地域に昔存在した風景の一つ「水車」を、住民が自らの汗で復活させたこと。この時にも岡田さんは「町の補助はない。内子は合併して無くなっても、石畳だけは残ろう。」とタテマエ型のコミュニティ組織ではなく、自前型のコミュニティ組織として「石畳を思う会」が進んでいくように仕掛けていく。

石畳を思う会にしろ、内子の町並み保存運動にしろ、組合活動にしろ、活動の切り口は多様だが、岡田さんの心の根底に流れているのは「地域のため」という熱い想いであり、その想いに住民は惹かれ、そして自律し、運動を継続してきた結果が、今の内子町には溢れていた。



岡田さんが、このような活動を始めたきっかけは、30歳台のときの内子町の急激な人口減少が発端とのこと。
「本当にこのまちは生き残っていけるのか?」
「将来に、まちの歴史や風景、そして誇りを継承していくにはどうしたらよいのか?」と考えたことが、活動を始めたきっかけとのこと。

「僕は全然デスクワークできなかったからね~」。とおっしゃっていたが、使用されているパワーポイント資料は、観光や地域のあり方を、とても明確に体系化されていた。僕たちが普段仕事で行っている「デスクワーク」は、それに比べると少し恥ずかしくなった。
そして話は「公務員の倫理」に入っていく。「住民に本当に必要とされている職員か?」「税金が給料であるみなさんは、きちんともとをとっていると思われる仕事をしているのか?」その言葉の裏には強い信念と実績に裏打ちされた自信、そして僕のように「公務員」というぬるま湯、そして井の中の蛙になっているヒヨッコへの叱咤でもあり激励だったように思う。
岡田さんが今回まちづくりを語る際に「観光」という面から語ってくれたことは前述したが、実は僕は以前ある人から「易経」を読むことを勧められていて、その本が今、手元にある。
「観光」とはすなわち「国の光りを観る」ということである。「国の光りを観る」とは、一国の風俗や習慣、また民の働く姿を見て、国勢や将来を知ることである。そのように兆しを察する能力を「観光」という。
まさに、岡田さんはこの能力を持っている人であり、そしてさらに凄いのはこの能力を自分だけでなく住民の方々や僕たちのような若い職員に備えさせようと行動している点だ。岡田さんがおっしゃっていた「審美眼」も、まさにこの「観光」の能力の一つであり、僕たち公務員が備えなきゃいけない物なのだと改めて強く思う。
公務員を退職し約10年たつというが、その目や身体からは、レーザーメスのような光りと、近寄りがたい鋭角なオーラを感じていたのは、僕だけではなかったとおもう。

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