20110304 第5回 寛流学林

●高橋さんが考える歴史とは?
年表がある歴史ではなく、文明・文化・都市の歴史を学んだ。
丸山 眞男さんの政治思想史や明治以降の政治思想史は特に学んできた。
丸山眞男 - Wikipedia
WIKIのページ

●徴収の問題について
最近いろんなところで発生している公共料金の徴収ミスの問題。
公務員の基本は法や条例に従って動くこと。どの町にも長年抱えてきている課題や問題があるが、その問題を複雑にしないように、常に外へ分かりやすい情報を発信し、解決することが重要。
そういう時は部下のミスであっても、理事者は先頭にたって動かないと不信感だけが残るのみ。
いずれにしても私たち自身が一住民の立場で考えることが重要。

●自然について
自然・・・言葉では言い表せれない大きな物。
これを言葉で表そうとするのが「近代の作法」。ただし、昔の人はこれを身体を通して知ってきた。

●浪合村と山、森、林
・おそらく高森町でもそうだが、S30年代は公有林がお金になった時代。これを販売し利益に変えることが大きな収入だった。上郷町が飯田市との合併が遅かったのも、野底山の山林がお金になったからと考えられる。高岡周辺の木を切り、座光寺小学校も建設された。
・浪合村は人口800人から戦後は1600人へ。これは満州から帰村された方々がいたから。このためには耕作面積を増やさないと村が維持できなかった歴史がある。
・この時に浪合村がとったこと
1)開墾・・・開拓農協を組織。今のあららぎCCは元放牧地。ゴルフ場のため芝生を生産していた。
2)村有林の開放・・・戦後の農村政策は過疎対策だった。

3)挙家離村・・・このような挙家離村に対し、S37年は60万円の補助が出る時代だった。(当時飯田市役所の初任給が6,000円だった時代。)

●挙家離村〜過疎の歴史
S20年代 挙家離村して開拓
S30年代 都市部へ行って出稼ぎ
S41年  初めて「過疎」という言葉が出てきた。
→このように考えると、実はつい最近まで「人減らし」をしてきたのが町村の立場だった。
<例>大平宿の事例
S45年くらい、財産を残すことは許可し離村してもらうことを薦めた。(飯田方式・・・自由に離村を認める方式。)

●過疎に対する大きな2つの動き
当時は2つの動きがあった。一つは上記にあるように飯田方式。もう一つは東北地方に見られた「新しい村をつくる」という動き。
一時、山形県はまちづくりのレベルが高いと言われた。それはこのように新しい村に携わる職員が多く、まちづくりに対して総合的に知識を得た職員が多く育ったため。

●自然に携わってきた村人への影響
・前述のとおり林業や自然に携わってきた人たちへ、安い外国産の木材がまさに「侵入」してきた。
・その時に山で生きていけなくなった村人はこう思った。
1)自分の役割を果たしていない
2)先祖に申し訳ない
しかも、最近では環境問題(CO2の削減など)と絡めたため、「先祖の森」から「地球規模の森」へと話がすり替わってしまった。
村人が今まで触れ合っていた具体的なものが、大きな抽象的なものへ替わってしまった。
・村とは「自然」を含めた空間、自然とは自分の暮らす場所である。

●日本の家・・・自然を呼びこむもの
1)縁側が大きく開かれた窓。日が差し込むつくり。
2)家の中を風がとおるつくり。
3)家の周辺には木を。
「やぶを背負っている家」いばったり、金があるからではなく、それも理由があるのではないか?実際、藪を切ったら風が必要以上に入り込む家になってしまった例もある。
事例;仙台市居久根若林区、富山県砺波(山村離村)など
結城登美雄さんは飯田市にも来たことがある。
結城 登美雄
プロフィール

●都市と農村
・「自然は大切なものだ」という考えから、経済発展のためには自然破壊を行う時代へ。この不調和はなぜ?
・農村の近代化とは農村の都市化。農村=都市となることだった。
・過疎は都市化の裏返し。だからこそ今「共同体とはなにか?」を考えるべきではないか?
・中国や西洋の都市のように、都市を城壁などで囲むことは日本にはなく、決して都市と農村は対立してきたわけではない(柳田国男『都市と農村』より)。
・日本では豊臣秀吉の兵農分離政策以前は、武士は普段農業を行い一大事の際だけ「いざ、鎌倉!」だった。
・そもそも農村や農民は「欲を持たず、自己を過大に主張せず」という心を持っていた。公務員は、住民がこの気持を持っている事を忘れたらダメ。
→このような想いが、村や共同体を長く維持してきた。
ところが産業革命の際、経済学者は自然を科学技術によって無限のものとしてとらえる、という矛盾から始まってしまった。

●サスティナビリティ(持続可能性)
・リオサミット等で唱えられてきたサスティナビリティ(持続可能性)。気を付けなくてはいけないのは、あくまで人と人のつながり、自然と人のつながりの中でサスティナビリティを考えなくてはならない。企業や自分の充足感を得るための持続可能性ではなく、他者を尊重したりその関係性のための持続可能性でなくてはならない。


●これからのまちづくりの考え方
・例えば「橋ができて便利」という考え方で事業を起こすと、人はもっと便利なところへ飛びついていく。すでに「橋をどこにつくるのか?」という議論から入っていることが間違い。「橋が本当に必要なのか?」という議論から入っていかないと・・・
・飯田が飯田であるために、「自分の住む地域に独自の文化がある」ということが例えそれが不便でも幸せであり、大切なこと。
・観光カリスマの山田桂一郎さんはスイスのツェルマットにて、あえて不便さを突き詰め、それが地域の伝統と景観、誇りを守り、そこに付加価値が付いた。
・三遠南信道路やリニアなどは、ある程度年配の方々は推進しているが、意外と若い世代がそれに疑問を呈している。この乖離が広がっていくことを防ぐには、ある程度年配の方々の意識も変えていくことが必要。
・いろんな町を歩くたびに、必ず俯瞰できる場所を見つけそこへ行く。そういう景色も見ながら、仮説を立て地元の人と会話する。例えば水俣に行ったときは地元の老人とお話しし、魚つき林について教えてもらった。こういう身体を通じて覚えたことは決して忘れない。


・公務員として、住民の方に何かをお願いする時にはいきなりお願いをしてはダメ。米、野菜、景気・・・こういう事から話していかないと。そのためには常にアンテナを張り、学習をしていないとだめ。またこういうことが一番話せないのも公務員。「何に来たのか?」と言われたらやっと話すこと。
・自分がなろうとした公務員は、全体を見て判断出来る人。またそれを住民の方々が求めていると感じていた。
ある事業を行う、ということは飯田市や都市全体、飯田下伊那地方という全体から見てどうなのか?という判断ができる公務員になろうと思った。
そこには、自分の周りに財政のプロ、税のプロ、観光のプロなどの仲間がいたことが大きい。

●高橋さんとの会話より
ぼく「最近、ある人を通じて人脈が増えたんですよ。」
高橋さん「次のステージは自分から会いにいくこと。僕は1年のうちに1週間くらい休みをとってそういう人に会いに行った。『なぜあなたと会わなくてはいけないのか?』と言われたら『それはあなたのためにもなる、勉強になる』と言って説き伏せてきた。」※これって凄いことだな・・・

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