条例説明会に参加して
水、木、金と「まちづくりプラン」「(仮称)自治基本条例」の説明会へ。多くの勉強になる意見を頂いている。「条例にするのなら、罰則を持たせる・規制しなければ意味が無い」
「今日の人数を見てどう思う?人数があまりにも少なくないか」
「多様なニーズが時代背景にあると記載してあるが、データなどで分析したのか」
「公募の委員だというが、それが町民の意見と言えるのか?」
「役場が呼びつけるのではなくて、地域の会合に出てくることも必要じゃないか」
だが、これが「現場」だと思う。だからこそ、面白い。
僕たちの町は住民参加の町ということで昭和60年代から多くの取り組みを進めてきた。その歴史を受けるように、今回は住民の委員さんが自ら自分たちの想いを説明するという機会を作った。また条例を策定していく上で、このような住民の委員の皆さんが地域を回ることも、昨今ではその事例は無かったように記憶している。
先進的な市町村では当たり前かもしれないが、このようなカタチをとったのは、まさに公募で集まって下さった委員さん自身からの意見だった。
それでも前述のとおり、「公募の委員だというが、それが町民の意見と言えるのか?」「今日の人数を見てどう思う?人数があまりにも少なくないか」「役場が呼びつけるのではなくて、地域の会合に出てくることも必要じゃないか」という意見も頂いているのは事実である。
公募の委員の皆さんは「確かにそういう意見もあるし、そういう議論を幾度と重ねてきて、今夜の中間発表を行なっている。ぜひ、地域に皆さんがご自宅に帰った時は、家族や近所の方に、今日の内容や様子を伝えてほしい」と自分たちの想いを話してくれる。先ほどの写真にあるように、資料も若い世代の委員さんが中心となって作成してくれたものである。
民主主義、住民参加の意義
国政にしろ町政にしろ、可能ならば一人ひとりが全て参加し、意見をし、それがカタチになるのが究極の仕組みだが、もちろん不可能であることは明確である。だからこそ、様々な試みを全国では行なっているのだ。住民の皆さんの意見をどのようにカタチにするのか、例えば今回のまちづくりプランや条例を作る上で、公募委員を募り委員会を設置するというのも「一つのやり方」だ。
住民参加から行政参加への変換
また「役場が呼びつけるのではなくて、地域の会合に出てくることも必要じゃないか」という前述の意見については、委員会の中でも議論になり、僕自身は「とりあえず実験でいいからやってみよう!」と、提案をしてくれた委員さんに誘われ、ある保育園のPTAの定期総会に(実験的だが)飛び入り参加させて頂き、その総会にいらっしゃった多くのお母さん方から活発な意見を頂いた。またそこで感じたことは、年代や性別、ライフステージによって社会的課題への関心は変化することだ。これは「住民が町政へ参加する」住民参加ではなく、「行政が住民の自治政治へ参加する」行政参加への変換と言えるし、こういう場所にいくことで、上記のような気づきを得ることができるのだ。
直接参加の限界、インターフェースの多様化
そして、ここに「直接参加の限界」が存在する。様々な立場の意見をどのようにカタチにしていくのか、どこまで直接的な対話を、どの頻度で行えば良いのか?これは僕の職業の
永遠の課題だと思う。だからこそ、いつも同じ手法ではなく、そのインターフェースを多様化していく試みを行なっているのだ。
小さな議論が、多くの場所で行われている重要性
個人ではなかなか取り上げられない事例が、意見集約・具現化システムの中で、より「カタチ」にし易いものに変化していく仕組みが存在するのだ。(個人の意見が弱くて団体の意見が強いという「力関係」を表しているのではなく、またそんな力関係は存在しない。ここで話しているのは意見を効率的にまとめあげる「仕組み」のことなのだ。ここを勘違いして、話を展開してしまう方がいる。)
それは、ある地域では組合や常会、自治会などの仕組みかもしれないし、ある地域ではNPOかもしれないし、はたまた行政が制度として設置した「住民参加」の仕組みかもしれない。何が正しくて、悪いという話ではなく、こういう多様なインターフェースが存在することが重要だと思う。
そして、何よりもその仕組みの最もたるものが、間接民主制であり、選挙であり、地方行政においては「二元代表制」なのだと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿