ここんとこ、いろいろあったんで、ちょっと書きます(行政の仕事、協働、コミュニティ)

仕事柄いろんな相談を受けます

仕事柄いろんな相談を受けます。僕はまず相談があったときは、安易に行政として補助金などで支援するのではなく、まずはその団体に「いろんなやり方を考えましょう!」と投げかけます。まずはその団体で考えてもらうことが大前提。
一方で、僕たちはネットワークをフルに使いながら、知っている団体を横につなげたり、情報を提供したり、時には一緒に動いたりして、側面的支援を行うようにしなければならないと思っています。
 だからこそ、誰かに言われたことをそのまま公の場で伝えたり、それをすぐにお金をつけて事業をすることが僕の仕事ではないと思っています。


評価は本当は誰がするの?

そして、生意気な言い方かもしれませんが、その活動の評価を行うのは本人ではなく他人の視点です。どんなに自分たちで「町の発展のためにやっているんだ!」と思っても、(例え、それが本当に良いことだとしても)一人よがりであれば、届きません。
 その一つの原因は、その団体の活動のPR不足、上手く情報が伝わっていない結果だと思います。この原因はどこにあるのでしょうか?全ての責任は行政にあるのでしょうか?考えてみたいと思います。
 また、活動の評価についても内輪ではなく外から見て、「いいことをやっているよね!」と評価されなくては、本物の評価とは言えないのではないか?と思うのです。


 もともと民間にいらっしゃって、いろんな御縁で行政の仕事に付いた僕の尊敬する職員の方から聞いたのは「この立場になって驚いたのは、本当に細かい依頼や要望が行政にすぐに上がってくること。それぞれの団体が資金力があり活動などを起こせる力を持っているのに、あまりにも安易に行政に頼りすぎている。立場が違ったことで見えてきたよ」と話して下さいました。
 僕たちは、この点をわからずに仕事のやり方を間違えると、せっかくの団体が持っている自律性や自主性を奪ってしまうのではないか?と思うんです。
 そして、この点が僕の修士論文のテーマであったし、これからのライフワークとして研究しようと思っている点です。
World Cafe: 20140204 口頭試問






「役に立つ場所」の意味

4年ほど前になると思います。ある地域で「行政にすぐに依存するのではなく、まず地域の中で本当に課題となっていることを話し合う機会を設けましょう。そこがスタートじゃないでしょうか。会議を開くことがOKでしたら、すぐに段取りします。」という話をしたことがあります。
 その時に「人に役立つ場所が役場でしょ!あんた、そういう仕事をしなさいよ!」と叱責を受けたことがあります。そのご婦人は、どうやら役場がその課題についてお金を出す前に、地域の中でまずは話し合いをしなければならないという点について疑問を持ったようなんです。ですが、僕はそこは譲りませんでした。また安易に配るような補助制度も、その後は作りませんでした。

 はっきり言って、僕はこの時の自分の判断を間違ったとは思っていないんです。

 僕がこの地域を知った時に、表面的に出ている課題の裏側に「地域内のネットワークができていない」ということを、その地域に住む他の方々から聞いていました。同じ区域でありながら、そして、となり同士の地域にほとんど交流がない。まずはそこを結びつけることが必要だと判断したのですが…
 以前の価値観ではすぐに「お金を出す」ことが最善の手法だったかもしれません。そういう職員が以前は評価されたのかもしれません。でも僕は違うと思っています。もちろん、いろんな手法があって、最終的にその手法の一つとして「お金」があってもいい(ここも、今後の僕のやってみたい研究テーマの一つですが…)
 「役に立つ場所」の意味や在り方、そして解決方法は時代によってどんどん変わるべきだと思っています。

協働の意味

まちづくりの中では「協働」という言葉が使われるようになって久しくなりました。協働という言葉も、多くの意味があり、また時が立つに連れて変化していると思っています。
 自治基本条例が多くの自治体で流行りのように作られるようになった際に、この「協働」という言葉が乱発されました。そして中には「協働」という言葉で、今まで行政が行なってきた分野のことを町民などに押しつけて、それを「協働」という言葉で綺麗にまとめようとしたんではないか?という議論が全国的にあったことも、皆さんがご存知のとおりです。

 その際に出てきたのは、「協働とは対等の立場同士で使われるもの。だから町民と行政・議会での協働はおかしい」という議論。確かに、この内容は「権力を持っているものと市民が対等であるかどうか」という点からすると、確かにおかしい。指摘は正しい。
 ですが、僕自身は策定委員会の中で委員の方から
「そんな難しいことより、住民も行政も議会も、それぞれの立場はあるのは当然だけど、良い町にしてこうっていう方向で、それぞれ協力しながら、やっていけばいいじゃん?それを『協働』って言ってもいいじゃん」
という意見があったんです。

僕自身としては、言葉の使い方に気を取られていて、本当に大事な部分を見落としていたんだと、ハッとしました。
 もっと言えば、先ほどの「協働」という意味に縛られなくても、わが町としての定義があれば、気にする必要がないんではないか?これは、策定委員の皆さん、すなわち住民の皆さんとの議論の中から生まれてきたものです。
 そして、この言葉を入れるという点を、策定委員の皆さんと一緒に決めました。この考えの過程もきちんと議事録に記載し公開しました。学術的にはおかしいかもしれない、でも「わが町ではこういう定義で入れたんだ」、これが「自治」ではないか、と思うわけです。

 また「協働」という言葉について、その意味は決して「慣れ合い」ではないのです。「中立的な立場を取る上でも、協働という言葉は…」という意見もありましたが、果たしてそうでしょうか?
 先ほどの「住民も行政も議会も、それぞれの立場はあるのは当然だけど、良い町にしてこうっていう方向で、それぞれ協力しながら、やっていけばいいじゃん?それを協働って言ってもいいじゃん」という定義で考えれば、どうでしょうか?
 また「協働」だからと言って「対立」がないわけではない。むしろ立場が違うからこそ、当然意見ややり方について対立があって当たり前なのです。その多様な意見をどのように調整し、どのようにまとめるか?コレは誰の仕事なのか、というのは言うまでもありません。
 さらに僕たちは、さらに多様な意見を頂く場や、それらの意見を調整する場、議論する場を作り公開し、可否の結果やそれまでの過程を記録し、さらに公開することが重要になるわけです。まさに、この点を行政の責務として規定しているのが、まちづくり(自治)基本条例だと思うのですが…


コミュニティに関して、自治基本条例に入れること

また自治基本条例の内容について、コミュニティに関して規定することの是非も議論があったところです。これは上記の「協働」と同じく、研究者の中でも議論が分かれるところです。
これも先ほどの「協働」と同じく、「自治基本条例」の先進事例の「型」で考えてしまうと、おかしな話になってしまう。これも「わが町では、コミュニティの規定は入れておこう!」という話になれば、入れていいはずです。これも住民の皆さんとの会議の中で、自分の中で気付かされたところです。


頭の中で知識や情報の「濾過」が起きている状態

フィシュキンの『人々の声が響き合うとき : 熟議空間と民主主義』の中では、熟議とは人のそのままの生の意見が、熟議を行うことで「濾過」されるという表現をしています。



 自分の論文の中でも書きましたが、僕は個人であっても、学習や体験、そして熟考というプロセスを行うことで、同じことが起きていると思っています。
 「忙しいから本や文献、資料など読めず、きちんと調査・研究できない」、これは僕も口癖のように出てしまう言葉です。ただし、それは自分の仕事に対して責任があれば、時間を作ってでも読むべきだと思うのです。そのように作った時間での学びが、意外と実になるのではないかと、最近少しずつ思うようになりました。
 そしてこのような過程や経験・行動を通じて自分の頭の中を整理し、それを表現・発言することは、責任ある立場や場面において、本当に必要な能力になるのではないかと、考えるようになりました。


うーん、こう書いてみると、これからやることばかりで、大変だ。ムムム…

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