「意見」と「事実」は違う、「レポート」と「論文」は違う

IMG_7290
※写真は当日の飯田市内の様子です。このお店ではなかったんです…
先日、飯田下伊那の社会人で修士学を取得、博士課程を履修中という、「奇特な」人たちの小さな忘年会があり参加してきました。

 その中で、感じたこと。

「意見」と「事実」は違う

「意見(想い)」を出すことはいいことだとは思います。ただし、茶飲み話ではなく、これが政策立案の場や生産的な会議を行う際には、ちょっと困ることがあります。この「意見」を検証せずに、その方向に進むことは後ほど危険を伴う場合があるからです。また、いろんな人を巻き込むには、説得力という点から見ても少し弱いかな~とも思います。もっと言えば、そういう政策立案の場などで、自分の思い込みのような「意見」は、無責任ではないか?とも言えます。
(もちろん、その「意見」にいきなり「共感」して多くの仲間が集まり、「よし!やろうぜ!」というケースもあるので、これはこれでまた楽しかったりしますが…)

 そのために、その意見が「事実」であるかどうか、きちんと情報を集める必要があります。○×アンケートや既存の統計データからの「定量的調査・分析」、アンケートの自由記述やインタビューをテキストに起こしての「定性的調査・分析」などを通じて、その「意見」が「事実」なのか?を見るわけですね。
 もちろんこんな堅苦しい調査ではなく実際活動をしてみて、そこから「事実」がわかるっていうことも、多々あります(ただし、信ぴょう性を高めるためには、数をこなす必要があります)。
 これらを通じて明らかになったことが「事実」ですね。

「レポート」と「論文」も違う

で、同じように「レポート」と「論文」も違うんです。大学院に行って、これが一番の学びでした。前述のように「こういう調査を行なって、こういうことがわかった。だから、こういうことが考えられるよね」というのは「レポート」であって、「論文ではない」んです。
 もっと突っ込めば、「こういう調査を行なって、こういうことがわかった。だから、こういうことが考えられるよね。」「だからこういう解決策が効果的だと言えるよね」というのもレポートです。

 論文では、まずは自分自身の「問い(仮説)」が無くてはならない。例えば「今、この町ではこういう課題を抱えている。こういう活動があればあるほど、その課題は解決されるのではないだろうか」という、「仮説」を立てるわけです。それに対して、先行事例、先行研究を調査し、自分でアンケートや視察を行い、さらにその中から自分のロジックを組み立てて、その仮説を立証することが「論文」の一番のベースなわけです。
 もちろん、これは「事実」の確認も必要です。先ほどの例の「今、この町ではこういう課題を抱えている」という点もきちんと調査して、本当にその課題を抱えていることは事実なのかという点も明らかにしなければいけません。

___
 僕の指導教員は、そのあたりを厳しく教えて下さった人でした。
「君の話し方を聞いていると、『僕が体験したから、僕がこう考えているから、それでいいんじゃないか?』という雰囲気が出ている。仕事としてはそういう決断力は必要かもしれないが、学問の世界では通用しないんだ。自分の想いではなく、きちんと自分の仮説を論証する、そういうアプローチが必要だ。特に口頭試問の際には自分の論証に対して、反証も受けながら評価教員を説得させなきゃいけない。」
___
 確かに、仕事ではある程度の「エイヤ!」ってやつが必要ですが、学問の世界では通用しません。「こういうアカデミックな世界があるんだ」というのを改めて肌で感じることができて、これが一番の勉強になりました。

仮説を生むときの難しさ…

で、確実に言えるのが、この「問い(仮説)」を生み出すことが、恐ろしいほど難しい。
 前述のとおり「こういう調査を行なって、こういうことがわかった。だから、こういうことが考えられるよね。」「だからこういう解決策が効果的だと言えます」までは、ある程度簡単に頭に思い浮かぶんです。でもこれを書くだけでは「レポート」の範疇を出ていない。論文ではないんです。

すっごく簡単に書くと…
「こういう調査を行なって、こういうことがわかった。だから、『今、この町ではこういう課題を抱えている』と考えられる。」
「この課題を解決しようとする動きがあるが、こういう機能をもった活動があればあるほど、その課題解決は促進されると言えるのではないか」とまで、設定しないと論文ではない、ということ。
 しかも、この仮説については、なぜこういう問題提起をしようと思ったのかという出発点は、もちろんオリジナルでなくてはいけません。
 「全国的にも言われているように…」「こんな文献にも書いてあったとおり…」という出発点から問題提起をしても、それは論文ではない。もっと言えば、そんな研究は既にされつくされている、ということと言えます。
 まあ、これは体験してみなければわからない。また、世間で「論文」と呼ばれているものの中には「レポート」であるものも多々あるということがわかるようになりました。
(で、自分の修論の出来は?と言われれば、全く偉そうには言えませんが…)


アプローチとしては理系も文系も同じ

これって理系とか文系とかの違いはないんですね。例えば「ある細胞をつくるにはこういう条件が必要なんだ!」「こういう作業を行えばST◯P細胞ができるはずだ!」という仮説をもとに、実験を何度も何度も繰り返し、自分の仮説を証明するわけです。


仕事でも同じ

この考え方って、実はアカデミックな分野ではなく普段の仕事でも重要なんです。特に行政の仕事は、この「事実にそって」とか「仮説を検証する」という面が大変弱い。
 そのため「カリスマ首長」「カリスマ職員」というのが引っ張っている時はいいけど、いなくなった途端に、一気にその仕組が崩れてしまう、人に仕事がくっついてしまっていた、という状態になってしまうんですね。
「ノリ」でいくことも重要ですが、どこかでその「ノリの法則」を見つけて、「一般化」できる作業が必要ですね。


オススメ図書

このあたりの本が、大変参考になります!








最近では、この本に大変勉強させて頂きました!

0 件のコメント:

Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

ZenBack