「平凡の非凡」※町村週報2973号(28.09.19)より。

今回は、久しぶりに真面目なネタ。町村週報2973号(28.09.19)より。

「人間には無限の可能性がある」

1)まずは巻頭の村上和雄先生のコラムより。「人間には無限の可能性がある」とは、その通りだと思います。
そして、ここには人を信じ、慈しむ「性善説」が根底にあると思います。
最近気をつけなければいけないなあと感じるのは、肩書や役職がつくと「見きあう方向」が違ってしまう人がいること。
僕も気をつけなくてはいけない。そして、いろんな人の可能性を信じたいと思っています。

「災害時のつながる力」

2)次は8ページの昆先生の「災害時のつながる力」。
ここでは村名は挙げられていませんが、長野県のある村の日頃のつながりが、災害時に大きな力を発揮する点について述べられています。
実はコミュニティ課題に関しては、最近「災害時の助け合い」という切り口から入る傾向があり、それには正直少し疑問を持っているのですが、それでもこういうことが災害時には大きな力になることは事実です。
いつからか「物事を効率的に進めていく」ことが、盲目的に「個人を尊重する」ことと結びつき、このような地縁コミュニティの活動や機能が疎まれてしまう傾向にありますが、本当はどこかで切り離して考えるべきことだと感じています。


「平凡のうちに非凡あり」

3)最後は巻末の北海道上ノ国長の工藤昇町長のコラム。
若くして町長になられた際のご苦労、そして今の地方創生の動きに、ある意味疑問を投げかけています。
タイトルは「平凡のうちに非凡あり」。
僕も短い間でしたが地方創生の交付金等の担当をしました。闇雲に新規事業や広域連携を求める今の仕組みやルールについては疑問を持っています。
小さな市町村ほど、人口減少や少子高齢化はもっと以前より切実な問題で、それぞれ知恵を出し合って進めてきています。それはある意味、今のように地方創生と国が叫ぶ前から「先進的に」事業を展開してきたと言えます。
そのような今までの事業展開は評価されないのでしょうか?それが評価されずに、(例え中身がない表面的な内容の)新規事業であること、広域連携であることが、交付金採択の条件になっているのは、少し「何だかおかしいなあ」と感じるわけです。


また、この工藤町長、文体は優しい表現なのですが、結構本音を書いて下さっていると思うんです。

「財政健全化のために補助金をカットした際はたくさん批判を受けたが、その効果が現れると町民は『賛成していた』という発言に変わる」
「いろいろな補助金政策を行なってきたが、その弊害は町民に『もらいグセ』がついてしまうこと」
なかなか、こういうことって書けないし、書くからには、大きな課題として捉えているのでしょう。

実は、仕事をやっていても、今、こういう意識が変わる境目に来ているような気がします。
まだまだ、以前の「右肩上がり」の時代で話しをしている人が多い。その意識をどう変えるか、今の時代について「理解」ではなく、どう「体験」してもらえるか?がカギなんだと思うんです。

決して僕はなんでも「削減しろ!」「なるべくお金を使うな!」という考えではないのです。
先日のある委員会でも話題になりましたが、「将来的に利益がある、効果がある、というものをしっかり見極め、そこには投資すべき」という話になりました。
実は、こういうことをしっかり行うと、そんなに派手ではない。実は、じっくりそういうことを見極めることができる職員を育てるべきだし、そのためには時間がかかるんです。当たり前なことを、しっかりやる。「凡事徹底」なんですよね。
この平凡なことを、しっかりやることで、それが平凡ではなくなるわけです。

実は、実家にどういう経過なのかわかりませんが「平凡の非凡」という額があります。どうやら親父の同級生である書家の方が下さったものらしいのですが…


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