下栗の里へ今日は南信州自治研究会の活動で、飯田市上村の下栗の里へ。
「にほんの里100選」にも選ばれた下栗の里は東京学芸大学名誉教授で地理学者の市川健夫氏は、この下栗の風景を指して「日本のチロル」と命名したほど。
「にほんの里100選」にも選ばれた下栗の里は東京学芸大学名誉教授で地理学者の市川健夫氏は、この下栗の風景を指して「日本のチロル」と命名したほど。
霜月祭りを代表とする、伝統芸能の宝庫でもある。
今回は下栗自治会長の胡桃澤さんの案内で、ビューポイントへ。以前よりこの下栗の里を一望できるビューポイントは、一部の写真家などには知られていたが、その場所までいくのはとても危険で、普通には簡単には行けない場所であったとのこと。しかし、このように自分の里の景色を「素晴らしい」と評価してくれる人たちの言葉で、地元の下栗のみなさんが手に手を取って平成21年度、長野県の「地域発元気づくり支援金」を活用し、750mのビューポイントまでの通路等を整備した。この事例は平成21年度の優良事例として知事賞を獲得している。
http://goo.gl/maps/z0tF
<歴史>
水田は急峻な土地柄のため全くなく、昔から雑穀農業を行ってきた。また、昔より林業も盛んであり江戸時代はこのあたりの山林は幕府の直轄地とされ、ここから切り出された良質の木材は城の修理等に使用されてきた。
また、当時年貢などは米や畑から取れた野菜等であったが、ここ下栗に関しては木材や榑木(「くれき」ヒノキやサワラなどから製した板材)が年貢の替わりであった。そのため下栗は「榑木成(くれきなり)村」と呼ばれていたこともあったとのこと。
(「くれき」とは前述のとおり、「なり」とは「ものなり(ほんとものなり=「本途物成」江戸時代、田畑に課せられた本年貢のこと。榑木を年貢としておさめていた村なので、こう呼ばれたらしい。泰阜や大鹿なども呼ばれていたとのこと。)
<特産品>
下栗の芋やソバは味もよく、地元を代表する農産物。特にソバに関しては駒ヶ根の大手業者にも、普通のそば粉の約2倍の値段で取引されるとのこと。
<集落の現状>
70歳代が中心メンバーとのこと。最近では県内外より紅葉のシーズンなどは、マイクロバスが10台も来るという状況に今はなってきている。現在の集落は10数戸で、高齢化率は60%を超える。しかも小学生2人、中学生2人という状況の中で、少しでも多くの方が訪れてくれる今の状態から「この地域に住んでみたい」という人が現れてくるのが本音のところ。
今回配られたパンフレットも、住民が一人一人がガイドができるように自治会内全ての家庭に配布されているとのこと。
今回配られたパンフレットも、住民が一人一人がガイドができるように自治会内全ての家庭に配布されているとのこと。
それでも胡桃澤さんと話しをしていると・・・
やった~!
このポイントの入り口である「はんば亭」までは、車が一台しか通れない蛇行した道を上がっていく。確かに現代の感覚から考えると不便な場所なのかもしれない。だが、このような場所だからこそ、下栗の歴史や文化、景観が守られてきたとも言える。
聞いた話だが、リニアや三遠南信道路に関していわゆる高度経済成長期を過ごしてきた年代の方々は諸手を挙げて賛成、だが20〜30歳代の若者のほうが、その考え方に疑問を感じているらしい。
「本当にリニアや三遠南信道路が出来たときに、南信州らしさを確保できるのか?」
「流通の波に乗るのではなく、飲まれてしまうのではないか?」
私が尊敬する隣市のMK女史は、このリニアや三遠南信道路を「劇薬」と表現した。使い方によっては良薬にも毒薬にもなる。僕たち若い世代が、この件が「諸刃の剣」であることを忘れてはならないと思う。
一番怖いのは、下栗の里のような景色や歴史が日本から無くなってしまうこと。
そして公務員としてどのようにこれを考えるのか?これが一番重要なところ。
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